忘れるためのノート

建築 本 映画 思想 etc...

マスメディアとしての近代建築 再読

マスメディアとしての近代建築 アドルフ・ロースル・コルビジェビアトリス・コロミーナ/1996

アーカイブ

コルビジェの「建築的プロムナード」がアラブの建築の体験から導かれている≠バロック建築バロック建築は紙の上で理論上の固定された点から考えてられている)(西沢立衛もGAにて言及していたと思う。)

・ロースとコルビジェアーカイブに対して対照的でありながら、同じ効果(多大な批評作業を引き起こす)を近代建築の展開という枠組みでみると生んでいるという指摘。一方は痕跡の破壊、そしてそれを回復、再構築しようとする運動、一方は過剰な痕跡、それに対する整理、最解釈しようとする運動。→近代建築は空間と表象を往来して組み立てられる(事後的に)

・レイナー・バンハムによる指摘。近代運動=「写真的事実」に依拠した、美術史最初の運動。産業建築物、建築家作品が「直接的な」経験によってではなく(ただ写真を介してのみ)建築家に知られ、近代運動のイコンとなったという事実に言及→建築の生産の場の変化(非物質的な場所)。特徴として、実はエフェメラル(現象的)なものではなく、建物そのものより永続的。

■都市

・写真と鉄道はほぼ同じ時代に生まれており、写真が建築になすことは、鉄道が都市になることと同じ=対象を商品に変え、雑誌を通して大衆が消費できるように伝達すること

・鉄道=点と点を結ぶ(点と方向性)、境界がない代わりに関係がある空間→物理的な連続性のない非場所性という特徴を写真の空間概念と共有している。

・「おそらく誰でも気付いたことがあるだろうが、絵とか彫刻とか、いわんや建築は、実際に見ているよりも写真で見た方が理解しやすい」ベンヤミン/写真小史

■写真

・マスメディアの論理、写真はそれ自身では特定の意味を持たず、他の写真やキャプション、論文、ページレイアウトとの関係で意味を持つ

・「出版の写真は撮影され、選択され、組み合わされ、構成された対象である。」ロラン・バルト/Le Message photographique/1961

Arch as Info

いや〜このブログを始めたのは320日前であるらしい。

三日坊主ならぬ一日坊主である。

とはいえこのブログのことを思い出しただけでもすごいと思いたい。

 

さて。

 

この10ヶ月あまり何があったかというと色々あった。

スタッフが増えたり減ったり。。

まぁ、そんな愚痴めいたことを書きたいわけではない。

 

最近思ったことを書き留めておこうと思ったのである。

 

なんとなく改修物件、リノベーションやコンバージョンが流行っているなか、建物の保存活動というのもあるし、国の建物のストックの利用を送信する法的な整備も割とすすんできているような状況である。

 

それはさておき、もともとスクラップアンドビルドなる潮流が日本にはあったかとおもうが、その時代のものが構造的にRCかStかということは別にいいのだが、新陳代謝しいくというメタボ的な考え方はある程度日本の文化を表象しているというか、代表的な大枠を構成する考え方として捉える方向性もあるのではないだろうか。

 

建築を考える上ではその案件を考える上で改修物件かどうか、その他与条件は自ずと設定されるものだが、その辺りの考えをまとめておくと今後の立ち位置が明確にできるとも思う。

 

直感的な結論から言うと、別に改修して使い続けなくてもよい(注力しなくてもよい)のではないかとうことである。

 

誤解を与えそうな口ぶりになってしまったのだが、要は見方の問題で、その使用期間が一日であったりする仮設的な建物と、組積造的なもので耐候性がよい何百年も維持され使い続けられる建物も建築ではないかということである。

また、物理的なものに頓着しないVR的な空間さえも現れている。

 

ここまではまぁ、一般的な議論というか誰でも考えそうなものだが、ここからが書き留めて置きたいポイントだ。

 

つまりそのような考えにたった時、例えば日本的な文化が木造を中心とした約30年で建て替わるといった、移り変わりやすい一面をもつ、あるいはそれこそが最大の特徴として捉えたい場合、最近は良い民家も消えつつあるし、良い街並みも消えているなか、

どのようにその記録をアーカイブしていくかが非常に重要なのではないかということである。

物理的でなく情報としての建築として、である。

 

それこそGoogleがGoogleMapで逐一街並みを保存しているというのはかなり文化的には意義のあることのように思える。

 

特に自分は論文が建築の表象的な一面をカバーするものであったこともあり、そのような点に関心があるのかもしれないが、篠原一男が表象としての建築を重視したのはそのような移り変わる建築からの解放ということもあるのかもしれない。

それは日本的な文化の一面を捉えた必然的な動きとも捉えられるし、実際それはかなり有効に働いているようである。

 

そのあたりの表象の研究は建築の分野では特に遅れていると思う。

そのあたりを見直すというか、進めていくことは新しいものごとを生み出すことと同じぐらいの重み付けがなされてもよいのではないだろうか。

 

表現としての表象というのとの区別はつけないといけないが、(別に作家論をやりたいわけではないし)単に情報としても保存したいわけでもない。

 

その辺りを両立して、かつ、そのような状態であるからこそあり得る建築を模索したいものである。

すぐ忘れる。

ブログをはじめてみた。

というのも僕はなんだかすぐ忘れる。

特にエピソードは昔からよく忘れることが多いのだが、起こった事件は覚えていても何年前にとか時系列を正確に覚えてないことが多すぎる。。

ということで備忘録代わりにブログでもと思ったわけである。

 

でも、少し考え方を変えれば忘れるというのもいいことじゃないか?

忘れると逆にスッキリすることもあるし、忘れることで新鮮に感じることもあると思う。

なのでこれからは忘れることを恐れずに気軽に考えたこととか読んだ本とかその他もろもろ書いていくことで気持ち良く忘れたいと思う!

ある一定の媒体に記録していくと自分で考えたことも異なる角度から見られるのではないか。

もしかしたら滑稽かもしれないけど楽しみである。