忘れるためのノート

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Arch as Info

いや〜このブログを始めたのは320日前であるらしい。

三日坊主ならぬ一日坊主である。

とはいえこのブログのことを思い出しただけでもすごいと思いたい。

 

さて。

 

この10ヶ月あまり何があったかというと色々あった。

スタッフが増えたり減ったり。。

まぁ、そんな愚痴めいたことを書きたいわけではない。

 

最近思ったことを書き留めておこうと思ったのである。

 

なんとなく改修物件、リノベーションやコンバージョンが流行っているなか、建物の保存活動というのもあるし、国の建物のストックの利用を送信する法的な整備も割とすすんできているような状況である。

 

それはさておき、もともとスクラップアンドビルドなる潮流が日本にはあったかとおもうが、その時代のものが構造的にRCかStかということは別にいいのだが、新陳代謝しいくというメタボ的な考え方はある程度日本の文化を表象しているというか、代表的な大枠を構成する考え方として捉える方向性もあるのではないだろうか。

 

建築を考える上ではその案件を考える上で改修物件かどうか、その他与条件は自ずと設定されるものだが、その辺りの考えをまとめておくと今後の立ち位置が明確にできるとも思う。

 

直感的な結論から言うと、別に改修して使い続けなくてもよい(注力しなくてもよい)のではないかとうことである。

 

誤解を与えそうな口ぶりになってしまったのだが、要は見方の問題で、その使用期間が一日であったりする仮設的な建物と、組積造的なもので耐候性がよい何百年も維持され使い続けられる建物も建築ではないかということである。

また、物理的なものに頓着しないVR的な空間さえも現れている。

 

ここまではまぁ、一般的な議論というか誰でも考えそうなものだが、ここからが書き留めて置きたいポイントだ。

 

つまりそのような考えにたった時、例えば日本的な文化が木造を中心とした約30年で建て替わるといった、移り変わりやすい一面をもつ、あるいはそれこそが最大の特徴として捉えたい場合、最近は良い民家も消えつつあるし、良い街並みも消えているなか、

どのようにその記録をアーカイブしていくかが非常に重要なのではないかということである。

物理的でなく情報としての建築として、である。

 

それこそGoogleがGoogleMapで逐一街並みを保存しているというのはかなり文化的には意義のあることのように思える。

 

特に自分は論文が建築の表象的な一面をカバーするものであったこともあり、そのような点に関心があるのかもしれないが、篠原一男が表象としての建築を重視したのはそのような移り変わる建築からの解放ということもあるのかもしれない。

それは日本的な文化の一面を捉えた必然的な動きとも捉えられるし、実際それはかなり有効に働いているようである。

 

そのあたりの表象の研究は建築の分野では特に遅れていると思う。

そのあたりを見直すというか、進めていくことは新しいものごとを生み出すことと同じぐらいの重み付けがなされてもよいのではないだろうか。

 

表現としての表象というのとの区別はつけないといけないが、(別に作家論をやりたいわけではないし)単に情報としても保存したいわけでもない。

 

その辺りを両立して、かつ、そのような状態であるからこそあり得る建築を模索したいものである。